山上憶良といえば、代表的な万葉の詩人の一人です。
万葉の詩人といえば柿本人麻呂や山部赤人などがいますが
宮廷詩人として名を馳せた人麻呂や自然を美しく歌った赤人と違って
山上憶良は「貧窮問答歌」で有名なように人情を歌ったことで有名です。
貧窮問答歌にもとネタがあることも有名ですが
多く民衆の心を歌った歌人として日本の歴史に留めておいても良いと思います。
今の貧しさとは限りなく次元の違う、当時の貧しさとは、まさに赤貧だった時代でしょう。
貧乏とは恥ずべき事か?彼の究極のテーマがこれでした。
彼は、百済の渡来人ですが、日本語ではじめて士(ぶし、もののふ、おのこ、ますらお、だんし)
の何たるかを詠った人物だと思います。
スタンダードな日本人は寡黙で、立派なことをしたら名は隠し目立たぬように、
自分で立派だと思えば評判なんか気にするな、という傾向があると思います。
それを山上憶良は名を立てろ!といいました。
この歌を詠んだ時、憶良は病床に見舞いに来た
藤原八束の見舞いの使者の言葉に返答して詠んだ歌だといいます。
この時、八束はまだ19歳でした。
親友でもあるこの人生の後輩に遺訓として詠んだのかもしれません
それとも
万世に語り継がれる名を立てずして、それでいいのか?
本当にそれで自分は満足なのか?
貧しいことよりも、そういう仕事・業績をあげずして自分は死んでしまう
そのことのほうがよっぽど恥ずかしいことではないのか?
そう自分に問い掛けていたのかもしれません。
この歌を八束に送った時に憶良は涙を流していたそうです。
山上憶良は先ほども記述したように、祖国百済が新羅に征服され
祖国を失う形で日本にやって来ました。憶良4歳の時といわれています。
その後は渡来人としての運命でしょうか、実に41歳まで不遇のまま過ごします。
そんな憶良に千載一遇のチャンスがやってきます。
42歳の時に長い文筆生活が報われる形になって遣唐使の下級官吏に選ばれます。
当時の遣唐使はまさに命懸け、帰ってくれば出世は間違いなし
失敗すれば命を落とすのは必至、そう言う時代でした。
この賭けに憶良は見事に勝利します。
そして出世を重ね、とうとう臣の姓を頂き、従五位下に叙されます。
60歳目前のことでした。
そして70歳近くになって詠んだ歌がこの歌です。
無位無官の渡来人から、それなりの栄達を得た憶良でしたが
やはり、名を残すことは出来なかった、そう思ったのでしょう。
自分は空しく終わってしまう、
しかし、八束よ!君はまだ若い、士たるもの、名を立てねばならぬ
まさに、武士の座右の銘になる「名こそ惜しけれ」に通ずる気概だと思います。
山上憶良が万世に名を万世に継ぐべき仕事として編纂した
「類聚歌林」は、本当に残念なのですが現存していません。
しかし、彼の魂は、多くの日本人の心に受け継がれ語り継がれることでしょう。
富や貧ではないのだ名こそ重要なのだと。