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前田利常は、文禄二(1593)年に父前田利家、母猿千代(寿福院)の間に生まれました。
豊臣秀頼と同い年という事になります。
母はもともと利家の正室おまつの方の侍女でしたが
利家の目に留まり、利常を身篭りました。
寿福院は、後に近世の法華宗の繁栄の基礎を築いたといわれ
現在も寿福院の菩提寺である妙成寺には
日本で唯一ここだけ日蓮宗の七堂伽藍が古建築で完全に保存されています。
また五重塔など多くの重文が残っています。
利常が歴史の表舞台に立つのは、関ヶ原合戦の終了時に
丹羽長重と兄で当時藩主だった前田利長との間で交わされた和睦の人質として
丹羽家に行った時でした。
そして、関ヶ原合戦の論功と国母である芳春院(おまつの方)を
徳川家が人質に取っている見返りとして
秀忠とお江の方の娘である子子姫(前田家に来てからは珠姫)
との婚姻が決定しました。
慶長六(1601)年に利常が正式に利長の養嗣子になり
前田家の次期藩主と決定すると翌年には珠姫の輿入れがなされました。
珠姫はこの時わずか四歳、人質の意味もあるのでなされた事でした。
かわいい盛りの娘を手放す秀忠やお江の方の気持ちはいかばかりだったでしょうか
将軍家の子女は輿入れしてからも「姫」と呼ばれるものなのですが
前田家に来てから名前が「珠」と成ったのは
前田家にとって「珠」のように大事にすべきお方という意味だったのかもしれません。
慶長十(1605)年、利常は徳川家の推挙もあり
従四位下侍従の官位をもらい、松平を称することを許されました。
これは、秀忠の女婿として一門待遇をあらわすものでした。
これを見た利長は、44歳の若さながら利常に家督を譲りました。
こうして、13歳の若き三代藩主、前田利常が誕生したのでした。
利常は三代目と言っても、生まれながらに藩主の地位を約束されたわけではなく
むしろ、その立場は危ういものでしたが
利長が、ちょうど親子ほど年の離れた利常を気に入ったために
このような事になったと言えます。
ちなみに利長の実弟である利貞は後(1620年)に
困窮のあまり、知行召し上げ(家臣に給料払えないから、武士を辞めたい)を願い出て
その直後23歳の若さで亡くなって(おそらく恥を忍んで自殺)います。
このことからも、利常が利長の目に留まらなかった場合の
行く末がどういうものであったか、解るかもしれません。
さて、話は戻ってこの珠姫、将軍家のお姫様と言う事で
皆様の予想通り、わがままなお姫様でした。
わがままと言っても、豪奢な生活を送り
利常や家臣達ををないがしろにして、というものではありません。
生まれは江戸で政略結婚ではありながら、四歳のころから
利常と仲良くするように加賀で育てられた珠姫は利常との夫婦仲もことのほか良く
二人は子供を8人ももうけたほどでした。
では、どの辺りがわがままだったのか
父秀忠に対するかわいいわがままが多かったのです。
「お父様へ
利常様をお江戸から加賀へ戻してくださいませ
ねねより」
利常の参勤の度に寂しさのあまり珠姫は父の秀忠に
利常の早期帰国を願い出ていたのです。
四歳のかわいい盛りに人質のような格好で
娘を他国に嫁にやった秀忠も珠姫を不憫に思っていたらしく
おかげで利常の参勤の滞在はいつも2・3ヶ月程で済みました。
また、ご存知のとおり普通は大名の妻は
江戸に人質としておいて置かれるのですが
珠姫の場合は国元にいる事ができた為に前田家と加賀にとっては
大変良い効果をもたらしました。
珠姫が国元にいることで加賀百万石の文化が花開いたと言っても良いかもしれません
彼女と若君たちを楽しませるために
多くの芝居小屋や茶人たちが京都や大坂から来たのです。
将軍の娘がいて、加賀百万石という財力あれば
大坂の陣の後に衰退を見せていた京都や大坂の芸人が集まってくるのも頷けます。
当時の前田家の地位とはいうと
将軍秀忠の初めての御成(天皇で言う所の行幸、屋敷訪問)は利常の屋敷でした。
この事からもかなり幕府との関係は良好だった事がわかります。
そんな中寛永八(1631)年一つの事件がおきました。
実に15年ぶりに加賀藩内で大坂の陣の論功を決めなおす事にしたのです。
どうやら、いまだに家臣の中では大揉めだったようで
この際と言う事で、大いに奮発して加増をしたようです。
そして、同じころ金沢城が火災で焼失していたために城の再建をしていました。
また、佐竹家では毎年参勤、前田家と同じく幕府の覚えがめでたい細川家でも
藩主親子のどちらかが必ず江戸にいましたにも関わらず
当時前田家では、藩主利常、嫡男光高ともに加賀にいました。
このような複数の条件が重なった事で
前田家は多くの浪士を抱えて(知行が増えるとその知行にあった部下を抱えなければ成らない)
城を強固にして何を考えているのか?
急ぎ江戸へ来て釈明するようにとの手紙が来ました。
前田家では、少し家格の驕りがあったらしく
徐々に参勤もやっつけになっていたところでのこの手紙に驚いて
急いで藩主親子揃って参府する事を決めました。
幕府としても、参勤を前田家が果たせば問題は無かったようで
釈明を全面的に受け入れたようでした。
次に前田利常と言う人物はどういう人物だったのか
様々なエピソーから見ていきたいと思います。
彼を見る事で前田家の地位がどのようなものだったのか解ると思います。
彼のエピソードで一番有名なのは
「殿!御鼻毛、御飛び出しておられまするぞ!」
「よいのじゃよいのじゃ、わしゃ光高のパーパなのーだ〜」
(もはや前田家もこれまでか、このままではお家取り潰しは逃れられまい・・・)
「おい、そうがっかりするでない、わしはこうして阿呆を気取っておれば
幕府もわしに目を光らせる事もなかろうて」
と「鼻毛大名」として阿呆を気取っていたというエピソードがあります。
これは、ある意味「幕府謀略史観」という
後の世や時代劇等が作り上げてきた史観に基づくものも多分にあると思われます。
幕府は常に外様大名の改易を狙っている・・・・と。
それを裏付けるように、このようなエピソードもあります。
将軍秀忠が、亡くなって喪に服しているときに
前田家では江戸屋敷の普請をやり続けました。
これには江戸中でいぶかしんだ人々がいたそうです。
これを告げにきた幕府の旗本に対して
「たとえ前公方様が他界なされても
当公方様がいらっしゃるのだから何の気遣いもする必要は無い
むしろ安心して普請などができるのである。」
と言ったといい
これには家光もたいそう喜んだといいます。
また利常の晩年に
江戸城で能が催されるときに頭巾着用禁止がされているにもかかわらず
利常が一人だけ頭巾を着用して来ました。
そこで儀式担当の目付けが何度か注意をしましたが利常は改めません。
そこで老中松平信綱に目付けが報告に行ったところ
「馬鹿者め!左様な心得ではお目付け役は務まらぬぞ!
そもそも殿中頭巾着用禁止となったのは前田殿のような老人に
御許しなさるためなのだ。」
といって逆に目付けを叱ったといいます。
もちろん鼻毛事件を含めてこの手の傾きエピソードは
ほとんど作り話とは思いますが
利常が老中などを意に介さずにある程度自由に振舞っていた事はわかります。
単にビビっていただけでは上記のようなエピソードは残らないでしょうから
単純な幕府謀略史観が当てはまらない事も
これらのエピソードは証明しているといえます。
話は戻って先の親子揃っての参府で危機を脱した前田家に朗報がもたらされました。
将軍家光の養女(水戸頼房の娘、水戸黄門(光圀)の姉)大姫と
嫡男光高の縁組が決定したのです。
光高は利常と珠姫の子で
まさに、生まれながらの藩主でした。
光高は剛毅で堂々としたタイプの藩主で
それを表すエピソードが多く残されています。
ある時、若い者に大判振る舞いをする事が趣味になっていた
伊達政宗が光高に脇差を与えようとしたのを政宗を立てつつも断ってみせました。
大藩の矜持をみせたと利常を大いに喜ばせたと言います。
また、国宝級の藤原公任が写した和漢朗詠集を
南光坊天海が冗談で「貰っていきますよ」とからかってみたところ
表情一つ変えずに「どうぞ」と言ってあげてしまいました。
すると天海があわてて返してその度量を褒めたといいます。
しかし、一度だけ利常が光高を叱った事があります。
江戸の大火事の時に前田家は増上寺を守るように言われました。
そして、当時すでに藩主だった光高自らが陣頭に立って
江戸の殆どが焼けてしまった中で増上寺を火から守り抜きました。
そして、光高は江戸中の評判になりました。
この事を利常に報告に来たものに対して
「馬鹿を申せ、火などには勝てるものではない
これで光高が怪我でもしたらそれこそ御公儀に申し訳が立たない。
大名のご奉公と言うのは、燃えるに任せて
その後増上寺を何度でも再建して差し上げることを言うのじゃ
光高も若輩ゆえに怪我の功名というものじゃ」
と言ったために報告に来たものは黙ってしまったといいます。
利常に寛永十六(1639)年ようやく隠居の許可が出ました。
利常47歳、光高25歳の事でした。
この光高のことを家光はたいそう気に入って
男子のいなかった頃は家光は光高を養子にしよう(時期将軍)とまで考えていました。
光高と大姫の婚儀以来幕府と前田家の関係はもう蜜月関係と言ってよい関係で
それは、江戸城でも御三家以上の待遇を受けていたと言う事からも解ります。
しかし、光高は茶会の途中で突然頓死してしまうのです。
大姫との間に嫡男犬千代(後の綱紀)が生まれたばかりの事でした。
利常は大姫の顔を見るなり泣き崩れたと言います。
綱紀がまだ3歳という若さであったために
藩を守るため再び利常は藩の表舞台に立たざる終えなくなりました。
利常は綱紀が藩主になった時に苦労させないように
藩内改革に残りの人生を全てかけたのでした。
その一番手が前田家でも藩の財政が苦しくなり始めたところでの農地改革でした。
世に言う改作法というものでした。
簡単に言うと
流通面では、いわいる庄屋制を廃止して
農民が直接藩に年貢を納めさせるようにして
中間コストを削減しました。
また、年貢を率にせず固定にする事で
頑張れば頑張っただけ残余米が出るようにして
農民のやる気を起こさせたのです。
もう一つ綱紀のためによき結婚相手を探さなくてはなりません。
そして、家光の腹違いの弟である保科正之の娘の摩須姫との婚儀を決めました。
この摩須姫に絡んで大事件が起きます。
なんと摩須姫の姉が摩須姫を毒殺して自分が輿入れしようとしたのです。
しかし、摩須姫付きの侍女がこの事を察知して
お茶を取り替えたために姉自身が死亡するという事件が起きたのです。
このような大事件があったもののその後婚儀は無事に取り交されて
利常もほっと安心したことでしょう。
こうして、次に藩内の家臣団の改革に手をつけようとした時に
利常は卒中で亡くなってしまうのです。
しかし、利常にとって幸いだったのは
綱紀の事一切を義父である保科正之に頼めた事だったかもしれません。
上記の遺言の由来は
利常が晩年をすごした三宅野台地からの眺めを大変気に入っていたために
この地に灰を埋めてほしいと遺言したことによります。
現在も前田利常の灰塚がその地に残っています。
もしかしたら、利常の真の活躍は
光高亡き後の事だったのかもしれません。
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参考文献
「戦国武心伝」学習研究社
「加賀繁盛記」 山本博文 NHK出版
「御家立て直し」 中江克己 青春出版社